NPO法人うちのの館  俳人藤岡玉骨の家 登録有形文化財「 藤岡家住宅 」


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■藤岡 玉骨(本名 長和)

明治21年〜昭和41年、五條生まれ。三高、東京帝大卒。
内務官僚として各府県を歴任。佐賀、和歌山、熊本県の官選知事を務めるかたわら、俳人として活躍、師事した高浜虚子に「大和の大桜」と讃えられた。
■藤岡家住宅(玄関)

官吏・俳人として生きた77年の生涯とその交友録
■明治21(1888)年5月13日、金剛山から初夏の薫風が心地よく流れる奈良県宇智郡北宇智村近内(現五條市近内町)の旧家藤岡家に待望の男児が生まれた。
父は初代村長の長二郎、母はナラミツ。合わせて十一人の子に恵まれた夫婦にとって初めての男子だった。長和と命名。のちに佐賀、和歌山、熊本県の官選知事を務めるかたわら、高浜虚子に「大和の大桜」と讃えられた俳入玉骨の誕生であった。
■地方官として各地を転々とした玉骨愛用のかばん。「N.F.」とある。
右上は東京帝大卒業証書
■正装した知事時代の玉骨

旧家の嫡男として誕生 三高時代は文学青年
 今から121年前。内閣制度が発足し、市制、町村制が公布され、翌年には大日本帝国憲法が発布される。まさに近代日本の草創期であった。先祖は織田の流れといわれ、長和は、寛政元(1789)年から四年まで宇智郡近内村の庄屋を務めた初代長兵衛から六代目とも考えられている。その藤岡家の当主になるべく、将来を嘱望され大切に育てられた。
 明治三十(1897)年、北宇智尋常小学校を卒業した長和は五條尋常高等小学校に進む。学業成績は図抜けてよく、同三十八(1905)年、奈良県立五條中学校を卒業するまで常にトップであった。
 正岡子規の主宰する「ホトトギス」(明治三十年創刊)、与謝野鉄幹・晶子夫妻らの歌誌「明星」(同三十三年創刊)などに影響を受けて中学時代に始めた俳句と短歌が大いに飛躍するのは、長和が第三高等学校(現・京大)に入学してからである。
 「俳句らしいものを作りはじめてから五十年になります」と『玉骨句集』(昭和三十三〈一九五八〉年刊)のあとがきに書いている。
また、近年新たに見つかった長和の直筆原稿「新詩社のおもひで」には、その頃をほうふつとさせる鉄幹・晶子夫婦との交流に関して書かれているので、長くなるが以下に紹介したい。
原稿は、玉骨研究家で生前の玉骨に師事した元高校教諭で文筆家の矢尾米一さん(63)=奈良市高畑町在住=が平成十七年、藤岡家住宅改修に先立って行われた邸内調査で発見したもので、新詩社の浪漫と情熱、その息吹を伝えてまことに貴重である。

 先生に拙い歌を見ていただいたのは三高にゐた三十九(1906)年頃からでなかったかと思ふ。田舎の中学にゐて生意気盛りの文学少年であったわたくしどもは当時世に出た鉄幹の「紫」晶子の「みだれ髪」「小扇」などを暗誦するまでに愛読し口真似の詩や歌を作り新聞雑誌へ投稿して得意になってゐた。所謂軟派の生徒で蒟蒻版刷の同人雑誌を作ってゐた不良仲間に「箸は二本也筆は一本也、衆寡敵せずと知るべし」など斎藤緑雨に私淑し、文士の卵を以て自任してゐた花骨と称する少年があった。早熟の鬼才であったが胸を病んで二十才台で亡くなった。
 花骨と親交のあったわたくしは中庭に老幹の紅梅があることから玉骨と称することにした。一つには新派歌人の総帥として崇敬してゐた鉄幹に因みのあることが悦しく敢てかやうな古めかしい雅号を選んだのであった。
鉄幹も玉骨も梅の美称であることを漢詩の本で知ってゐたからである。後年、先生の門に出入した頃には先生は既にこの号を廃し、寛を称し、人から鉄幹と呼ばれ書かれることを極端に嫌ってゐられた。
 「君、玉骨なんて号は陳腐だよ、面白くないよ」と曰はれた。「平野萬里・茅野蕭々・北原白秋などは姓と号とがよくマッチしてゐてよろしいな、それでは一つ先生にお願ひします」と申上げて置いたら間もなく葉書で「蒼香vと選んで下さった。
先生からいただいた雅号であったが、わたくしは何となく字面が好ましくなかったので数ヶ月後には蒼高ニ称することをやめて、歌では専ら本名の長和を名乗るこことした。
後、大学を出て地方官を拝命し、俳句を作ることとなり、句会へ出席した時、ふと玉骨の旧号を名乗ったことから先生には申訳ないと思ひつつ、つい今日まで俳句では玉骨で押通してしまったのであった。
 わたくしがはじめて寛先生にお目にかかったのは明治三十九(1906)の秋、三高在学中のことであった。当時筝曲界の新人として知られてゐた鈴木鼓村の宅へ泊られた先生を訪ねて、来あはせた十数氏と共に一タお話を伺ったのが初対面である。歌会ではなかった。文芸百般の漫談會であった。
 席上、「道は六百八十里」の軍歌の作者真下飛泉、洋画家の田中喜作、美術学校在学中の川路柳虹などを知り、深更下宿が同じ方角であったため柳虹と道連れになって帰ったのを覚えてゐる。

地方官として全国転々 ホトトギス同人に推挙
 三高から東京帝国大学法学部政治学科に進み、卒業したのは大正三(1914)年三月、長和二十五歳、門出の春であった。前年、大恋愛して結ばれた妻うた代とともにエリート地方官として各地を歴任することになった。うた代もまた詩歌を作り、青鞜社を創立した平塚らいてうらと交流する婦人運動家であった。
 以下は『大和百年の歩み(人物編)』(大和タイムス刊)を参考、引用して書く。
 以後、和歌山、神戸、金沢、長野、岐阜と赴任した先々で句友ができ、さまざまな句会に出た。昭和三(1928)年、四十歳で徳島県内務部長在職中には「ホトトギス」に投句して虚子の指導を受ける。また、そのころ郷里の古川迷水に誘われ、阿波野青畝主宰の俳誌「かつらぎ」創刊の企てに加盟し、青畝にも師事した。
 一チの鵜のおもひあがれる羽搏かな
 長良川の鵜舟の句で昭和四(1929)年、ホトトギス初人選のものである。
 以後、任地を京都、佐賀、和歌山、熊本と転じ、昭和十四(1939)年、戦時色がいよいよ濃くなってきたころ退官。大阪の宰相山に寓居を構える。五十歳たった。同年、岸和田紡績常務取締役に就任、以後、昭和十六(1940)年、大日本紡績取締役総務部長、同十八(1942)年、同常務取締役と戦時中は紡績会社の重役を務めたが、終戦の年の昭和二十(1945)年六月、空襲によって家が焼失、やむなく帰郷するのである。
 その間も句作に励み、昭和十五(1940)年には、ホトトギス同人に推された。機会あるごとに句座に列し、吟行に参加。関西草樹会に入り、大和俳句会の選者、毎日新関奈良版の選者となった。
 一方で、昭和十三(1938)年に『瑠璃』と題した冊子を刊行した。これは早世した愛嬢(長女)の瑠瑞子を偲んでの記念出版である。
 美しき仏なりしよたままつり泣く妻を叱るがわびし夜の秋
 翌十四年、知事の職を退いて故郷に帰ったときの句は、
 今日よりは縞こそよけれ初袷巣燕を見てゐて母と在るたのし
二十五年にわたった役人生活に終止符を打って、悠々自適を喜ぶ姿が目に浮かぶようである。罹災して帰郷した際の句に、
 帰んなんいざふる里は麦の秋ひもとくやわが家の黴の方丈記
 陶淵明の『帰去来辞』の故事にならって詠んだものであることは言うまでもない。自らも宇智野の田園俳人となったのだ。
 玉骨は生涯、森鴎外を尊敬し、定本虚子全集、漱石全集、芥川龍之介全集を愛読したと伝える。

帰郷し悠々自適の日々「神様のような人・・・」
 大小の春火桶あり大を抱く一門のいまは長老墓洗ふ
 昭和三十三(1958)年、古希の賀に『玉骨句集』が出版された。巻頭に高浜虚子の、
 古稀翁といへど大和の大桜
 がある。そのとおり、大和俳壇、いや大和人物中の大桜であった。阿波野青畝も序に「大和の大桜とあるは、まことにこの人を簡明適切に浮彫りにした美しい語だ、と感じている」と書いた。
 山めぐり巣を守るきぎす翔たせつつ
 これは五條の栄山寺に玉骨自筆で昭和三十二(1957)年、かつらぎ社、大和俳句会が建てた句碑。玉骨の代表句とも言えよう。
 菊の賀と言ひつつへだてなき集い
 これは昭和四十(1965)年十月三日、喜寿の祝賀句会で。
 翌四十一(1966)年三月六日午後三時、大阪厚生年金病院で脳出血のため死去、享年七十七。告別式は八日午後二時から三時まで五條市近内町の自宅で行われた。
 前述の矢尾さんは、このとき初めて自宅を訪ね霊前に額ずいた。師事してから三年、奈良高校から関西学院大学へ進んでいた矢尾さんだったが、とうとう面談することなく師は逝った。しかし、交わされた書簡は何十通にも及んだ。スランプで悩んでいたときには、便箋十枚に及ぶ文面に励まされた。
 その手紙には「私が東京の大学で学んでいた頃に同じように悩んでいた」ことなどを披歴しながら「何としても続けなさい」とあった。
 矢尾さんは「あの手紙でも東京帝国大学とは書かれなかった。人柄がわかりますね。俳句を始めたのも、私が今日あるのもすべて玉骨先生のおかげ。神様のような人でした」と懐かしむ。四十年以上前に郵送した白身の書簡類が、先の邸内調査の際にそっくり束になって出てきたときには、感きわまった。そして、俳入玉骨をもっともっと顕彰しなければと決意したという。





■開館時間
9:00〜16:00
貸会場の開館閉館時間はご要望に応じます。

■休館日
毎週月曜日
(月曜が祝日の場合は翌日)

■入館料(維持管理協力金)
大人300円
6歳〜中学生200円
20人以上は20%の団体割引有

■アクセス
〒637−0016
奈良県五條市近内町526
TEL / FAX:0747-22-4013
☆JR和歌山線北宇智駅から徒歩約20分(1.3km)
☆京奈和自動車道 五條北インターから5分(側道を国道310号の方向に進み藤岡家住宅の看板で右折。金剛山の方向へ道なりに進む。)

■施設
喫茶あり。グラウンドゴルフ場も併設。俳句・観月会・会議・お茶席利用可(要申し込み)。
年間通じて各種イベント開催(詳細要問い合わせ)